ビジネスと人権を考える(前編)


大阪経済法科大学教授 菅原絵美


 日本経済新聞「やさしい経済学」に連載された記事を、同社のご了解をいただき、転載しています。


前編(本記事)

(1)バリューチェーン全体の経営課題

(2)資本主義への問題提起に発展

(3)事業・業務の全般が関係

(4)求められるデューデリジェンス

(5)関係者の「声」が問題を可視化

後編はこちら

(6)供給網に潜む強制労働

(7)投資家に求められる責任

(8)製品・サービスの思わぬ影響

(9)欧州の先進的な取り組み

(10)日本の政府・企業が抱える課題



ビジネスと人権を考える(1)バリューチェーン全体の経営課題


 「ビジネスと人権」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは、バリューチェーン全体にわたる企業活動(調達、製造、流通、投資など)と、ステークホルダー(労働者、消費者、地域住民など)との関わりで生じる人権課題を包括的に捉える視点です。

企業は国内外で「ビジネスと人権」に関する責任や役割を求められ、人権は企業の経営課題であることが再認識されています。

 近年、企業の人権尊重責任を問う動きが活発化しています。米国は中国の新疆ウイグル自治区で指摘される強制労働と関係する製品の輸入を禁止し、欧州連合(EU)は環境やガバナンスと合わせて取り組みを義務化する指令案を検討しています。背景には英、仏、豪、蘭、独などの国内法整備があり、日本でも「『ビジネスと人権』に関する行動計画」が2020年10月に策定されました。

 政府の動きに先んじて、ESG(環境・社会・企業統治)投資や持続可能な調達・取引が重視され、市民社会は環境や社会問題とともに、企業の人権尊重責任を問うようになりました。

 さて、企業に問われる「ビジネスと人権」の責任とはどんな内容でしょうか。国連人権理事会は11年に「ビジネスと人権に関する指導原則」を承認しました。企業の人権尊重責任を明確化した初の国連文書で、法的拘束力はないものの、国家、国連機関のみならず、企業、市民社会に広く普及し実行されています。

 ここで確認された企業の責任は、バリューチェーンで関わる人々の人権を「国際的に認められた人権」の視点から尊重する責任です。経営に「ビジネスと人権」の視点を組み込み、人権尊重を盛り込んだ方針を策定します。そのうえで、事業活動で人権侵害がないよう相当な注意(デューデリジェンス)が求められ、人権侵害の被害者が被害を伝えるメカニズムも設ける必要があります。

 「ビジネスと人権」は、人権侵害に対する企業の責任を正面から問う点で視点の転換も求めています。

(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月10日))




ビジネスと人権を考える(2)資本主義への問題提起に発展


 「ビジネスと人権」という言葉が、国連の報告書で初めて登場したのは2005年のことです。当時、「ビジネスと人権」は主に、多国籍企業の進出国での人権侵害を問題提起するために用いられました。企業と個人の問題が国連の場で取り上げられるようになったのは、こうした多国籍企業への懸念からです。

 まず関心が向けられたのは、現地住民や先住民族への人権侵害です。ナイジェリアでは、石油大手ロイヤル・ダッチ・シェルの石油開発に伴う環境汚染で、その土地に暮らす先住民族は健康、食糧、水への権利などを侵害されました。多国籍企業がもたらす経済的恩恵や政府との関係性を考えると、政府による問題解決は期待できず、非政府組織(NGO)が国連の場で訴えるようになりました。

 1990年代から企業の社会的責任(CSR)を問う動きが高まり、「ビジネスと人権」の焦点もサプライチェーン、さらにはバリューチェーンへと広がりました。米スポーツ用品大手ナイキのスウェットショップ(搾取工場)問題が代表例です。製造委託先である東南アジアの複数の企業で強制労働、児童労働、ハラスメントといった深刻な問題が明らかになり、委託元であるナイキの社会的責任が問われました。

 このような射程の広がりは、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」でも確認されています。もとより「ビジネスと人権」の視点には、グローバリゼーションの影に対する問題提起が含まれていましたが、20年1月のダボス会議では「ステークホルダー資本主義」が提唱されるなど、現在では資本主義に対する問題提起を含む形でも展開されています。

 日本では、「ビジネスと人権」という視点に戸惑う企業からの声をよく耳にします。日本企業で人権といえば、障害者、女性、LGBT(性的少数者)に対する差別、ハラスメントやワーク・ライフ・バランスなど、自社で働く人々に対する施策が中心でした。こうした施策も含めて、バリューチェーン全体でのステークホルダーから考える「ビジネスと人権」の視点が求められています。

(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月11日))




ビジネスと人権を考える(3)事業・業務の全般が関係


 「ビジネスと人権」は、バリューチェーン全体で展開される企業活動と人権との関わりを包括的にとらえる視点です。もちろん、事業の種類、国・地域、そして時代によって人権との関わりは様々です。事業・業務が人権とどのように関わり、人権にどのような影響を与えているかを考える必要があります。

 そのためには、人権を「誰の何の権利か」と、具体的に考えることです。日本では、人権を「やさしさ」や「思いやり」と同義の抽象的なイメージでとらえがちですが、ここでの人権は極めて具体的です。

 まず、「誰の」権利かを考えます。企業に関わる「誰」は、取引先を含むバリューチェーン全体のステークホルダー、労働者、消費者、地域住民などです。侵害の被害は社会的に弱い立場の人々に集中するので、子ども、女性、LGBT(性的少数者)、外国人、障害者などの声は重要です。国連「ビジネスと人権に関する指導原則」では、「誰の」を担保するため、エンゲージメント(対話・協働)が重視されています。

 次に、「何の」権利かを考えます。バリューチェーンは国境を越えて広がるため、国際的に認められた人権が起点になります。1948年の世界人権宣言では、生命の権利、労働の権利、健康への権利、教育の権利など、誰もが差別なく享受する人権が具体的に規定されています。人権は英語では「Human rights」で、数えることができる加算名詞なのです。

 最後に、具体化した人権に事業・業務を結びつけます。例えば、健康への権利を考えると、労働者ではメンタルヘルスや長時間労働に対する健康管理が、消費者では食品の安全性や肥満を助長しないマーケティングが、地域住民では公害、廃棄物や工場排水の管理が関わります。調達元からのQCD(品質・コスト・納期)要求で適切な労働時間や健康管理が保てるかは「取引先の労働者の健康への権利」の問題です。

 このように考えると、人事のみならず、調達、製品開発、マーケティング、環境保全などあらゆる事業・業務が人権と関わっていることがわかります。

(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月12日))




ビジネスと人権を考える(4)求められるデューデリジェンス


 国連「ビジネスと人権に関する指導原則」は、国際社会の共通認識として、企業が国際的に認められた人権を尊重する責任を負うことを確認しました。では、企業はその責任を果たすためにどのような行動が求められるのでしょうか。そのひとつが人権デューデリジェンスです。

 デューデリジェンスは「相当の注意」を意味しており、指導原則の原則17では、企業がその活動のなかで人権を侵害しないように防止するための4つのプロセスを規定しています。

 第一のプロセスは人権影響評価です。事業や取引を新規に行う場合は事前に、その後は定期的に人権侵害が生じてないかを確認します。工場の勤務時間を変更する際は、育児や介護などで影響を受ける労働者に事前にヒアリングします。

 第二に、人権影響評価の結果を責任と予算を伴った形で、社内の意思決定や事業プロセスなどに組み込みます。第三は追跡評価です。取り組みを定期的に追跡し評価します。最後は情報開示で、企業の一連の取り組みに影響を受けるステークホルダーがアクセスできるようにします。

 このように人権デューデリジェンスは、企業の人権尊重の取り組みをマネジメントする仕組みです。では、対象となる「人権尊重の取り組み」、すなわち「どの人権課題に対して何をするか」については、どう考えればいいでしょうか。

 まずは、自社の事業・業務における人権課題の全体像をとらえます。バリューチェーン全体のステークホルダーを前提に、「誰の何の権利」という視点から、自社が抱える人権課題を振り返ってみましょう。

 そのうえで、バリューチェーン全体に広がる人権課題の優先度を確認し、それが高いものから順に取り組みます。その際、優先度の評価軸に、「人権侵害の深刻さ」などステークホルダーの立場からの人権リスクの基準を置くことが何より重要です。指導原則は、人権リスクと経営リスクを区別し、後者の視点を求めていません。従って、人権デューデリジェンスでは、ステークホルダーとのエンゲージメント(対話・協働)が不可欠なのです。

(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月16日))




ビジネスと人権を考える(5)関係者の「声」が問題を可視化


 企業の人権尊重責任としてまず求められるのは、防止の取り組みである人権デューデリジェンスの実施ですが、いくら予防しても侵害は生じてしまいます。国連の指導原則では、企業活動で人権が侵害されたステークホルダーが、苦情(グリーバンス)を企業に訴えることができるメカニズムを設けることを勧めています。これがグリーバンスメカニズムです。

 そもそもグリーバンスとは何でしょうか。日本語では「苦情」と訳されることが多く、クレームに近いイメージを持たれますが、企業活動から受ける悪影響を懸念するステークホルダーの声のことです。その声により人権デューデリジェンスでは可視化されなかった問題が浮かび上がれば、企業は深刻化する前に対処することができます。ゆえに、現場に近いメカニズムを設けることが実効性の点で重視されます。

 ではどのような仕組みを設けることが望ましいのでしょうか。例えば、社内の相談窓口や第三者による社外相談窓口に加え、労使間の社会対話、お客様窓口での対応など、今あるメカニズムも有効活用できます。最近では、非政府組織(NGO)などが開発したスマートフォンアプリを活用して、バリューチェーン上の労働者の苦情を受け付ける仕組みも広がっています。

 グリーバンスメカニズムはステークホルダーを企業による人権侵害やその恐れから救済するための仕組みです。企業活動から被害を受ける当事者がその企業のメカニズムを利用できるようになるには、企業と当事者とのエンゲージメント(対話・協働)の場になっていること、当事者が自身に利用する権限や資格があると認識できていること、そして実際に利用するよう意識づけられていることが土台となります。

 繰り返しになりますが、人権デューデリジェンスやグリーバンスメカニズムを整えても、どうしても想定外の人権侵害は起こります。ステークホルダーから寄せられた声を単なるクレームとするのではなく、そこから人権侵害やその可能性を考えられるよう、「ビジネスと人権」の視点がここでも鍵となります。

(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月17日))