大阪経済法科大学教授 菅原絵美
日本経済新聞「やさしい経済学」に連載された記事を、同社のご了解をいただき、転載しています。
前編はこちら
(1)バリューチェーン全体の経営課題
(2)資本主義への問題提起に発展
(3)事業・業務の全般が関係
(4)求められるデューデリジェンス
(5)関係者の「声」が問題を可視化
後編(本記事)
(6)供給網に潜む強制労働
(7)投資家に求められる責任
(8)製品・サービスの思わぬ影響
(9)欧州の先進的な取り組み
(10)日本の政府・企業が抱える課題
ビジネスと人権を考える(6)供給網に潜む強制労働
「現代奴隷」という言葉をご存じでしょうか。文字通り、奴隷にあたるような強制労働、児童労働、強制結婚、人身取引などを指します。暴力や脅しなどで、人がある仕事を拒絶することも仕事から離れることも実質的にできないよう搾取されている状態です。
国際労働機関(ILO)報告書によれば、現代奴隷の被害者は世界で4000万人(2016年)に上ります。世界で考えれば約200人に1人が被害を受けていることになります。
13年にバングラデシュで起きた縫製工場ビルの倒壊事故は、今なお記憶に新しい出来事です。倒壊により1100人以上が死亡しましたが、その労働者たちは低賃金・長時間労働に就いていました。なかには事故の前にビルに亀裂が入ったことを訴える人もいましたが、無視され仕事を続けるよう強要されていました。この縫製工場では私たちに身近なブランドの商品が作られていました。
現代奴隷にあたる児童労働や強制労働は、企業の社会的責任(CSR)でも、すでに課題とされていました。しかし、多くの日本企業はあまり「関係ない」問題として受け止めていたのではないでしょうか。
これらの課題が、あらゆる企業に具体的な対策を求めるものとして認識されるようになったのは、15年の英国現代奴隷法がきっかけです。この法律によって、英国現地法人および英国で一定規模のビジネスを行う日本企業は、取引先を含めた現代奴隷防止対策の情報開示を求められました。
米国務省が01年から毎年発表している「人身取引報告書」では、日本の技能実習制度が強制労働の温床として取り上げられました。近年では、中国新疆ウイグル自治区での強制労働も指摘されています。
ビジネスと人権に関する指導原則では、企業の人権尊重責任はバリューチェーン全体に及ぶとされます。自社が人権デューデリジェンスを怠ったことで防げなかった現代奴隷については、取引先とともに問題を是正し、被害者を救済するところまでが責任の範囲です。是正・救済されるまでは取引先に働きかけ続けることが求められます。
(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月18日))
ビジネスと人権を考える(7)投資家に求められる責任
日本でもESG(環境・社会・企業統治)投資の社会性の要素として、人権への関心が高まっています。
企業の社会的責任(CSR)と結び付けた投資は、かつてはSRI(社会的責任投資)、現在ではESG投資、サステナブル投資などと呼ばれます。いずれも財務だけでなく、環境や社会面での指標を組み入れて投資対象を決定します。
このことは、企業にとって社会的責任、さらには人権尊重責任を促進するインセンティブになります。投資家と企業との対話を通じて持続可能性を高める動きは日本でも積極的です。
経済産業省を中心に価値協創ガイダンスが策定されました。サステナビリティー課題への対応では、企業側はコーポレートガバナンス・コードを通じた積極的な取り組み、機関投資家側はスチュワードシップ・コードをもとに運用戦略に応じた考慮が求められます。今年6月に公表されたコーポレートガバナンス・コード改訂版では、サステナビリティー課題に人権尊重を明記しています。
機関投資家はスチュワードシップ責任として、企業の人権尊重の取り組みを考慮するよう求められるだけでしょうか。機関投資家もビジネスを行う主体として、企業と同様に人権を尊重する責任を有しています。持続可能性を追求する機関投資家のイニシアチブである「責任投資原則(PRI)」は、2020年10月、投資活動における人権尊重責任を確認する報告書を発表しました。
「ビジネスと人権」における投資家の役割と責任は大きいのですが、投資家は企業活動によって人権侵害を受ける当事者ではありません。欧州連合(EU)は人権デューデリジェンスや是正・救済を義務化する指令案を検討していますが、今年3月の欧州議会案に対して国連は、「株主は人権侵害の被害者の声を代表するステークホルダーではない」として、広範なステークホルダーの定義を見直すよう勧告しました。
企業の人権尊重責任の中心は、労働者、消費者、地域住民など当事者とのエンゲージメント(対話・協働)です。投資家ではないことには注意が必要です。
(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月19日))
ビジネスと人権を考える(8)製品・サービスの思わぬ影響
「ビジネスと人権」への視点は、サプライチェーンと呼ばれる調達や製造委託などの上流だけでなく、製品・サービスによる消費者への影響、さらには第三者が製品・サービスを使用することによる人権侵害という下流にも及びます。
製品・サービスといえば、製品の安全や衛生に関する取り組みがまず思い浮かぶのではないでしょうか。これらは消費者の身体の安全や健康への権利などと関係しています。さらに健康への権利から、食品の過剰摂取や無理な減量を助長するような広報やマーケティングも問題となります。違う観点からは、男女の性別役割分業を固定化するような表現・内容も注意しなければなりません。
一方、第三者が自社の製品・サービスを本来の目的と異なる形で使用したことで、人権侵害が深刻化した場合はどうでしょうか。例えば、米GEヘルスケア社の超音波機器が、インドで女児堕胎を助長(男女の産み分けに利用)した事例や、米マイラン社の医薬品が米国での死刑執行に使用されていた事例があります。特に後者の事例では、死刑を人権侵害だと認定している欧州のステークホルダーから、企業に是正・救済が求められました。
また、紛争影響地域での「ビジネスと人権」への関心も高まっています。イスラエル政府によるパレスチナ入植活動は国際社会で繰り返し国際人権法違反であると確認され、入植に関与する製品・サービスを提供する企業の人権尊重責任が指摘されています。
さらに、消費者および地域社会を越えて、製品・サービスを通じたバリューチェーン全体での人権への負の影響が懸念されているのが、人工知能(AI)の問題です。
AIは、採用やマーケティング、社会課題やニーズの発見など、私たちが普段から目にするさまざまな場面で活用されています。例えば差別的なアルゴリズムが設定されたり、AIの学習データに偏りがあることで特定の人々が排除されたり、とり残されたりする可能性があります。AIを利用する企業はもちろん、提供する企業にとっての課題でもあります。
(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月22日))
ビジネスと人権を考える(9)欧州の先進的な取り組み
企業や市民社会、政府が今、最も関心を寄せる「ビジネスと人権」課題は、「人権デューデリジェンスの義務化」でしょう。欧州連合(EU)ではコーポレート・デューデリジェンスおよびコーポレート・アカウンタビリティに関する指令(以下、EU指令)が検討され、欧州議会は今年3月に指令案を発表しました。
この「人権デューデリジェンスの義務化」という用語には注意が必要です。正確には、指導原則にある「企業の人権尊重責任」が国内法化され、社会的責任から法的責任になりつつあるということです。当然、国内法化の過程で規定内容にはばらつきが出ます。
EUからは離脱しましたが、英国の現代奴隷法(2015年)は現代奴隷に関する人権デューデリジェンスの情報開示を求め、その履行確保は市民社会のモニタリングに頼る仕組みです。フランスの企業注意義務法(2017年)では情報開示だけでなく、人権デューデリジェンスの実施自体に、司法による制裁や救済といった形で法的責任が問われます。
これに対し、ドイツで今年成立したサプライチェーン・デューデリジェンス法は、先に紹介したグリーバンス(苦情)メカニズムまでを義務とし、義務違反には罰金を科します。
なお、欧州議会の指令案では人権デューデリジェンスだけでなく、グリーバンスメカニズムや救済の導入を企業に求め、その履行確保にあたっては司法的制裁や救済、罰則の設定まで含みます。しかしながら「指令」案であることから、国内法の相違が今後も残ることが懸念されています。
ところで、このように進んでいる「人権デューデリジェンスの義務化」の動きは、そもそもバリューチェーンにおける人権の尊重に寄与するものなのでしょうか。「公正な競争環境(level playing field)」を実現するために、義務化が必要であるという主張をよく見かけます。 これがグローバル経済における公正さを求めるものなのか、それとも先進的に取り組む企業が、企業間競争で生じる不公平さから訴えているものなのか、慎重な見極めが必要でしょう。
(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月23日))
ビジネスと人権を考える(10)日本の政府・企業が抱える課題
「ビジネスと人権」の視点から、日本の政府および企業が抱える課題を取り上げます。
国連ビジネスと人権に関する指導原則では、第一の柱として国家の人権保護義務を規定しています。国家は、企業が人権尊重責任を実現できる環境を創り出す義務を負っており、日本政府も2020年10月にビジネスと人権に関する行動計画を策定しました。
しかし、現行施策に何が足りないのかというギャップ分析は行われませんでした。このため政府による新たな取り組みはあまり盛り込まれていません。日本社会にとって「ビジネスと人権」という課題は何を意味するのか、そのビジョンも提示されていません。
国内外の「ビジネスと人権」の動きをみると、中国ウイグル問題や日本の外国人技能実習制度など各国・地域での個別課題に関心が集まりがちです。これらは深刻な課題ですが、あくまでも氷山の一角で、その底流にはグローバル社会に深く根ざした構造的な人権問題があります。こうした背景があるため、特定の国・地域を対象とした取り組みだけでは不十分で、なぜこの施策が必要かという、「ビジネスと人権」をめぐる政策そのもののビジョンが問われるのです。
指導原則の第二の柱は企業の人権尊重責任です。日本では「自社の人権課題とは何か」という問いに、戸惑う担当者の声をしばしば耳にします。まずは、企業活動から影響を受けるステークホルダーとエンゲージメント(対話・協働)しながら、優先度を考慮し、人権課題を特定する必要があります。
企業の事業内容や展開国・地域は様々で、チェックリスト方式などは本来通用しません。さらに、児童労働や強制労働といった名前が、まだ付いていない人権侵害は多数あります。
事業・業務と人権のつながりを見つけ、事業が人権に及ぼす影響を評価することができれば、気候変動や新型コロナウイルス感染症などの課題とも乖離(かいり)せず、グローバル社会の持続可能性につながる課題設定に結びつきます。
(日本経済新聞「やさしい経済学」(2021年11月24日))
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